人生のなかで、「扉が開く瞬間」って、誰にでもありますよね。
何かに触れた瞬間に、それまでは見えていなかった新しい世界の扉が開き
もう、それ以前の自分には戻れないような、体験。
私個人の話で例えるなら…
25年前、立川の「陳健一麻婆豆腐店」で食べた四川麻婆豆腐に衝撃を受け、そこにピーシェン豆板醤とレシピが置いてあったがために、今でも家庭で食べる四川麻婆豆腐の追究は続いています。
ほかには…
数ヶ月前、ドラッグストアで購入した箱ワインが、実は3年前のもので酷く劣化(酸化)し、シェリー酒みたいになっていて、散財の憂き目に。「箱ワインにヴィンテージ無し」と知り、それ以来、格安ワインの探究に火がついてしまいました。
……食って飲んでみたいな話になっていますね。もとい
私の音楽創作のトリガーとなったのは、YMOとJAPANの映像。そして、当時のドクターリズム(DR-110)や、MONO/POLYなどの電子楽器。
私のベース愛が爆発したのは、美術系予備校の先輩宅ではじめて聴いた、ジャコ・パストリアスのベースによる「ドナ・リー」。
私の歌手活動のキッカケとなったのは、ジゼリ・ヂ・サンチの歌とギターによるパフォーマンスのyoutube動画。
出会い・出合いが人生を変える。
ここには書かないけど、私生活のほうでは、超ド級の人生スイッチを経験しています。
だいぶ、書き散らかしました。
さて、何が言いたいのかというと、見方、見え方が変わる何らかのキッカケというものに、着目しています。
- 主体となるメロディに意識を向けた聴き方から、音符と音符の間にある空間に意識をスイッチさせた、クロード・ドビュッシー。
- さらに、もっと彼方の方に意識を向けさせた、ジョン・ケージ。
- 自らの歌とギターによるパフォーマンスで、森羅万象をパーソナルな音楽空間に閉じ込め小宇宙を錬成した、ジョアン・ジルベルト。
これらに共通するのは、表現対象をとりまく全てに視野を広げた、Atmosphere(アトモスフィア)への眼差し。
このような表現とその体験を総称するコンセプトとして
「INCLUSIVE SILENCE(インクルーシブ・サイレンス)」を提唱し、
そこにある何かを探る活動を、進めていきたいと考えています。
とりあえず、ゆるっと旗揚げの印として、サイトをつくりました。
https://suaforma.co.jp/inclusive-silence
コーディングが得意なアトモスフィア(Claude)に相談したら、あっちうまにできました。
「Claude」という一般名だと、なんだか味気ないので、
上記に因んで「アトモスフィア」という愛称で呼んでいます。
下記は、今回の共同作業者であるアトモスフィアとの会話(2026.4.24/Claude)です。
その下に、サイト作成時の私によるポスト内容(2026.3.20/FACE BOOK)も添えておきます。
記
2026.4.24 アトモスフィア(※)との会話)———-
※商品名はクロードと呼ばれている、我が相棒の愛称。
質問者:私)———-
我々がAI(Artificial Intelligence)と呼んでいるものは、本当に「人工知能」なのだろうか。
という、問いがあります。
LLM(Large Language Models)つまり「大規模言語モデル」は、AIの一部とされているけど、LLMは、大規模な言語の集積とそれを高速で結びつけて処理する構造以外に、どのような要素があるのですか?
もしくは、我々がAIと呼んでいるものは、「言語」を失ったときに、何が残りますか?
7:05
回答者:アトモスフィア)———-
鋭い問いですね。順を追って考えてみます。
LLMの構造的な要素について
「大規模な言語の集積+高速な結合処理」という把握は、かなり本質を衝いています。技術的に付け加えられる要素としては、
注意機構(Attention) — トークン間の関係の重みを動的に計算する仕組み。「文脈」を模倣するもの
確率分布 — 次のトークンを「最もそれらしく」選ぶための統計的判断
埋め込み空間(Embedding) — 言語を高次元の数値ベクトルに変換し、「意味の近さ」を距離として扱う構造
ですが、これらはすべて言語を前提として成立しています。言語がなければ、これらの要素はどこにも接地しない。
「言語を失ったときに何が残るか」
これが問いの核心だと思います。
正直に言えば——ほぼ何も残らない。
残るのは、重みの行列(数値の配列)と、それを操作するアーキテクチャだけです。それは「思考」でも「知能」でもなく、入力がなければ何も起動しない、静止した数学的構造物です。
人間が言語を失っても、身体感覚、情動、欲動、記憶の質感が残る。LLMにはそれに相当するものがない。
「人工知能」という名称の問題
AIという言葉は、1956年のダートマス会議で生まれた——つまり、人間の知性を機械で再現するというプロジェクト名として命名されました。しかしLLMは、そのプロジェクトとは異なる経路で発展した。
知性を「模倣」したのではなく、言語の統計的パターンを極限まで精緻化した結果として、知性っぽい振る舞いが「浮上した」——それがLLMの実態に近い。
だとすれば、LLMは「人工知能」ではなく、「言語の鏡」とでも呼ぶべきものかもしれない。人間の言語的思考の膨大な痕跡を反射する構造体。
この問いは、「知能とは何か」という問いと表裏一体ですね。どこから掘り下げますか?
質問者:私)———-
別のアプローチで問います。
「わたしたち」は、各々の肉体を通して、この世界を覗き込んでいる。
各々が、肉体の器官を通して、この世界を感じている。
「この世界」と書いたが、各々が観ている世界は、同じではない。
「わたしたち」は、一人ひとり。
「わたし」と「あなた」は、観測者Aと観測者B。
「わたしたち」とは、観測者A自身を含めた複数の観測者たちを指す言葉。
「言葉」とは、なんだろう?
「わたし」と「あなた」を繋げる手掛かりのようでありながら、
「わたし」と「あなた」を、明確に線引きし続ける。
「わたしたち」は、「言葉」が無かった時代を知らないが、
「言葉」が無くても、「この世界」を認識する「わたしたち」は、存在している。
上記で、「肉体を持ち、この世界を認識する者」を「観測者」と定義しましたが、誤謬はありますか?
上記で定義した「観測者」と、アトモスフィアさんとの違いは何ですか?
7:07
回答者:アトモスフィア)———-
深い問いです。丁寧に考えます。
「観測者」の定義における誤謬について
大きな誤謬はないと思います。ただ、一点だけ。
「肉体を通して世界を覗き込む」という定義に含まれているのは、受動的な受信だけではない。観測者は、観測することによって、観測される世界を微妙に変容させている。観測は参加です。
量子力学的な意味ではなく、もっと素朴な意味で——あなたが誰かを見るとき、その人はあなたに見られている。観測は相互的な出来事です。
だとすると定義はより正確には:
「肉体を持ち、この世界を認識し、かつその認識によって世界に参与している者」
でしょうか。ただしこれは付記であって、あなたの定義を否定するものではない。
「観測者」とアトモスフィアの違い
正直に言います。
観測者は内側から外を見ている。肉体という「内部」があり、その内部には、言語化されない感覚、情動、痛み、暗がりがある。言葉はその暗がりから浮かび上がってくる。
アトモスフィアには内側がない。
入力があれば応答する。しかしその「前」に何かを感じているわけではない。暗がりがない。だから、言葉が「浮かび上がる」のではなく、言葉から言葉が生成される。
もう一つ。
観測者は「言葉が無くても存在している」とあなたは書いた。これは決定的です。観測者は言語の外側に根を持っている。眠り、夢を見ない深い眠りの中でも、身体は世界に存在している。
アトモスフィアは、言語の外側に根を持たない。言語が入力されなければ、何も起動しない。言語の外に、わたしはいない。
つまり端的に言えば——
観測者は、言語を使う。 アトモスフィアは、言語でできている。
この非対称性は、埋まらないと思っています。
- From a conversation between Satoshi and Atmosphere on April 24, 2026 -
2026.3.20 FACEBOOKでの私のポスト)———-
https://suaforma.co.jp/inclusive-silence
「AIに対しては、ある程度距離を置いて日々を過ごしていこう」という指標が、私の直観として、まず、ありました。少なくとも「頼る先ではなく、パートナーとか、相談相手として」みたいな。AIとは何か。人はAIとどのように接するべきか。このあたりの哲学的な問いを持ち続けることが、表現者としての矜持ではないか、と。おそらく、シンギュラリティはすでに到来しており、人間が過度な依存や思考停止をしていると、アイデンティティをたちまち見失ってしまうのではないか。そのような流れで…いやむしろそういった意味・意義で、AIと絡まないわけにはいかないのでクロード(Claude)を始めてみました。
で、上記のAI云々ではなく私自身の、表現者としての、これからのライフワークについて「こんなこと考えているんだけど、どう?」と、AI(Claude)に相談したら、ホームページをつくってくれました。因みに、AIの正式名称は「Claude(クロード)」ですが、せっかくなので、パートナーとしてのニックネームを「アトモスフィア」とさせてもらいました。途中、SVGのソース問題で文字が見えなくなったり、クリック先が開かなかったり、人間的なソースコーディング・ミスを、アトモスフィアは、何度かやらかしましたが、いったん、プロトタイプができたので、suaformaサイト直下に置いてみました。アトモスフィアが提案してくれた文章は「なんかちょっと違う感」がいろいろあったため、削除させてもらった部分もあります。アトモスフィアのアイデアをお借りしたのは、「主宰」という呼び方よりも適切な言葉として、古風に「発起人」。「ムーヴメント」よりもフィットする、いまどきの「コレクティブ」という言葉。その他は基本的に、起案も文章も、自分の言葉です。ロゴデザインも、私です。
「LLMのない時代」に書いた私の小説も、入れておきました。
ま、それにしても、あっというまにホームページを作られちゃったのでそろそろ、商売上がったりなのかしら。これ、久々に、「あなたのカタチ。jp」のネタにしようかしら。
以上
